2010年1月28日

朝堂院の歴史

朝堂院の原型と思われる殿舎については、『日本書紀』推古紀に飛鳥小墾田宮に関する記述があり、そこから推古女帝の出御する大殿(のちの大極殿)や大夫のひかえる「庁」(のちの朝堂)および朝庭について描写されている。

飛鳥京跡の上層遺構、すなわち天武天皇の飛鳥浄御原宮と斉明天皇の後飛鳥岡本宮については、飛鳥浄御原宮が後飛鳥岡本宮の内郭に「エビノコ郭」と呼ばれる宮殿を加えて完成したとされるところから、エビノコ郭は大極殿、内郭は内裏(天皇の私的住まい)のそれぞれ前身だったとも考えられる。

比較的規模の明瞭な朝堂院の最古は、前期難波宮の発掘調査によって明らかになった難波長柄豊碕宮のもので、そこでは朝堂跡14基以上を確認している。朝堂の各殿舎の規模は小さいものの、その数は最多で、また、朝庭の広大さを特徴としている。建物は掘立柱建物で、瓦は使用されていない。のちの大極殿に相当する内裏前殿と朝堂院が接する内裏南門は前期難波宮において最大の門であり、平城宮の朱雀門よりも大きい。また、朝庭の北方、内裏南門の東西には、複廊に囲まれた八角形の楼閣が並び立つ。これは、他の宮都にはみられない建物遺構である。古市晃は、これを仏殿もしくは、時を告げる鐘楼・鼓楼と紹介している。

藤原宮の朝堂院は最大規模をほこり、そこでは朝堂の東西第一堂と二堂以下とのあいだに格差が設けられた。いずれの建物も基壇をもつ礎石建物で、また、宮としては初めて瓦葺屋根が採用された。

奈良時代
平城宮の朝堂院は長安城大明宮(たいめいきゅう)含元殿(がんげんでん)の影響が濃いといわれている。ここでは、前半と後半ではその構成に大きな変化がみられるが、朝堂部分に関しては上述の2つのタイプの朝堂院が南北方向を長軸にして水路をはさんで東西に並ぶことでは違いがない。内裏と大極殿の関係やその移動、あるいは史書等の文献資料(史料)・木簡等の文字資料にみられる「中宮」「東宮」「西宮」と実際の遺構をどう整合させて理解するかをめぐって、活発な議論がたたかわされている。

難波京の難波宮、長岡京の長岡宮については朝堂数が8堂と他の宮都に比較して少ない。難波京は平城京の副都として造営されたことによるものであり、長岡宮については複都制そのものの廃止にともなう桓武天皇の緊縮政策の結果であった。なお、長岡宮にいたって内裏と大極殿は分離されるいっぽう、大極殿は朝堂の正殿としての機能を強め、ここに大極殿・朝堂・朝集殿の全体を一体化してとらえる「朝堂院」の語が成立し、同時代史料のうえで確認されるようになった。なお、「朝堂院」の語の史料上の初出は792年(延暦11年)のことである。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

朝堂院の歴史について調べてみました。とても興味深いですね。

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